創設のころの釣りを取り巻く社会
それはどんな時代だったのか


 昭和24年、それまでの網元制度を改め、すべての沿岸にあった古い権利が国によって買い上げられ、民主的な漁業を実現するための、漁業法が成立しました。
少し遅れて水産資源保護法が作られ、資源に対する管理の考え方が法の中に姿を見せました。
この二つの法を基幹として、漁業協同組合を中心に、沿岸漁業の技術が長足の進歩をとげていきました。
 一方、市民の間に釣りブームがはじまりました。
「ナイロン糸」「リール」「グラスロッド」という三種の神器が、釣りブームを巻き起こしたわけです。磯釣りという、江戸中期以来、我が国独自で編み出された技術は、交通網の完成とともに爆発的なものになりましたし、サラリーマン層には安全な砂浜からの投げ釣りがそのスポーティさから圧倒的な人気を呼びました。
各地の釣具店を基地とした釣りクラブが無数に生まれ、釣り人は爆発的に増えていきました。
 当時の釣り人口は、年間延べ1000万人といわれ、すべてのレジャーの中で最高位を誇っていました。
(現在の年間の釣り人延べ人数は5300万人)
 経済の高度成長のあおりを受けて、干潟や湾や湖などの埋め立て工事が全国いたるところで始まろうとしていました。それまで昔のままの石積みであった漁港の防波堤も、次第にコンクリートにかわろうとしていました。
 河川では治水の名目の下、堤防はコンクリートにかわり、極端な場合、三面がコンクリートでかためられた直線状の単なる水路に変えられ、全国いたるところの源流にあたる森林帯では、伐採された裸の山肌が目立ち、その下流ではダム建設が相次ぎ、それに砂防ダムが拍車をかけていました。
 渓流にすむアマゴ、ヤマメは壊滅的な打撃を受けており、もはや、渓流釣りというジャンルは成立し難い、ただ、ようやくはじまったばかりのアマゴの養殖技術が、かろうじて一筋だけの光明でした。
 琵琶湖産のアユを河川に放流することで、アユ釣りは全国に普及しようとしており、友釣りは上り坂に向かっていました。その余波なのかオイカワが各地の河川に拡散してきました。
 全国に続々と建設される増えるダム湖を中心に、止水域での野べら釣りも、頂上に向かいつつあったのです。その中で、河川に流入する農薬の被害も問題として浮かび上がりつつありました。
 やがて、河川改修の結果はすぐに現れ、海に流れ込む土砂は減少の一途をたどって、このまま放置すると、砂浜が痩せてなくなるのではないかという指摘はじまり,これを防ぐ目的で砂防のための離岸堤なども次々と建設されていました。
 産業排水による海の汚濁はピークに達しようとしており、それに輪をかけるように市民が排出し「水に流す」古くからの習慣にしたがって、内湾部では、ゴミは海面を覆い尽くそうとしていました。
 戦争が終わり、平和が続いて20年。漁船の大型化と漁法の発達によって上昇しつづけた漁獲量は、少しずつ翳りを見せ始め、それにかわって、魚の養殖技術が発達し、その結果、瀬戸内海の一部などで赤潮の発生が目に付きはじめた時代でもありました。
一方で、国民の食生活はしだいに豊かになるとともに、漁果をより拡大するために、漁具、漁法は急速に合理化されていきました。
 釣り人の側からみて、沿岸の魚たちは乱獲によって目に見えて少なくなってきたと感じられる時代でもありました。
 釣り人が開拓していく新しい釣り場では、古来からの地先権の感覚を残す地元の漁民と、釣り人の間で、釣り場の立ち入り禁止、磯止めをはじめ、漁場利用の上で調整すべき紛争が次々と発生します。
そんなとき、法の上で、何の位置付けもない釣り人には、紛争にあたって、解決の方法すら見当たらなかったのです。
「非漁民」と呼ばれ、勝手に海辺にやってきて、地元にで生活する人々の人の庭先で勝手に釣りを楽しんでいく「よそ者」でしかありませんでした。
 淡水の釣りでは、アユ、コイ、フナなど漁業権魚種として、漁業組合が増殖する種以外のすべての魚種は、やがて滅びるほかないのかと危惧されはじめました。

 そうした雰囲気は、漁業関係者や、行政関係者の一部に、欧米のようなライセンス制度を設け、釣り人を整理整頓する一方、内水面と同様、海釣りも有料化しようとの考え方を生んでいったのです。
 まさに釣りは,その本質の基である自由について存亡をかけた闘いの時期を迎えようとしていました。
(一社)全日本釣り団体協議会は、そうした時代の流れの中から、釣りと魚を守り、公の怒りの声を行政に送り届けるべく設立されたのです。


 









一般社団法人 全日本釣り団体協議会

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